なっしー ニッキのみ2023 三月中旬イこウ

2023年5月29日
朝は雨があまり降っていなかったが、配布し始めると少し雨足が強くなった。思ったよりレインコートが濡れてしまった。

2023年5月15日
搬入車が来たのが14時過ぎだったのと、雨で仕事が搬入だけだったので、その後、秋葉原でAKB劇場に行った。


3月26日から30日
公報や挟み込みをしていた。自宅を往復したり、自宅や営業所で挟み込みをしていました。


2023年3月18日
久しぶりに雨足が多少強いうえに肌寒さを感じたのでストーブをつけてしまった。

2023年3月9日

盆栽町エリアをまわってから、自宅で多少遅い噴水広場で行われるラフラフというアイドルイベントに向かうため、バスで最寄りの駅に向かった。

いろいろなトラブル試験監督。教室の例とは。

突然すいません。

実をいうと、各試験会場のどこかに試験官をつぶす試験官などがいる可能性があります。

確実な証拠はありませんので何とも言えないですが、自分の場合、数年前にある試験官と一緒の教室でありました。

その試験官は、朝礼の時は、他の試験官と話している感じでした。

最初は、教室設営の時に自分に対して「私は、問題を起こしているので、仲よくやりましょうね。」という優しげな感じで接してきました。

教室設営していたのですが、それぞれの階フロアの各教室を統括している責任者が教室の前に来ると教室ポスターを貼りに行きつつ、いきなり「あの人、役にたたないよ。」という感じで堂々と言って来たり、試験中になるとヒステリックな感じで、試験中、教室内で配置についていると、自分の所に、いきなり向かって来て「どうしてこんなことができないの!!」とマニュアルにないことを、わざと威圧したり、タイミングよく目を釣り上げて言ってきたりしてきました。

昼休みになって、その試験官に「そんなにイヤだったら、変えてもいいですよ。」と言ったら、お菓子をあげて「私も手伝いますよ。」と言ってきて申し訳無さそうなフリをしつつに、他の試験官の人と何事もなく話しつつ、自分には知らん顔で会話され無視され続けました。

今振り返ると会場責任者に事情を説明して担当を替えてもらったりするなど相談するべきだと思いました。

午後の試験時間になって、どうかなと思ったら、相変わらず午後の試験時間もマニュアルにないこと言ってきたり、自分の配置に、時々、わざわざ近寄って来て「なんてことするの!!」と言う言葉に近いセリフで、なおかつヒステリックに表情や仕草も同じ感じで何回か言って来ました。

結果的に試験終了5〜10分くらい前にキレてしまい、教室の端の壁を叩いてしまいましたが、試験自体は何事もなく終了しました。

それに反省して以降の試験官の仕事を控えています。

すいませんでした。

おそらく試験中に何かあったら、会場責任者にその試験官と一緒に怒られるか厳重注意と思います。

当然、教室撤去作業が終わり、本部に帰ったら会場責任者に怒られ続けましたが、なぜかその試験の立会人?の人がなだめていたり、その試験官が試験が終了してスタッフが解散した後も、なぜ、その試験官がその場にいなかったかもいたのも後に気になりました。

自分は、スタッフがほぼ帰った後に本部教室を出ました。

本当は、次の日の午前10時30分くらいに会社から携帯に電話がかかってきて通話したときに、きちんと説明できれば良かったですが、担当者によっては全く通じませんでした。その後、個人的に数年間は試験官の仕事がいくつか理由があって勤務出来なかったですが、今日の朝、突然気づいたので、自分が知っていることを知らせようと思いました。

その試験官が意図的に試験官をやめさせたいのか、試験妨害をしたいのか、よく分からないですが、タイミングが良いときに何度かヒステリックな行為、試験終了後に不在行為、会場責任者や副責任者に試験官のわざと悪口を言っている可能性があります。

その他、憶測ですが、ある試験官は本部教室から各担当教室に行く途中で教室のドアのカギがないと開かないと、わざとバタバタしつつ、いざ教室のドアノブに手をかけたら、普通にドアを開いてしまい、その後、何事もなかったと思ったら、試験中にわざわざ近づいてきて、何度も耳元にいろいろとつぶやいて来たり、ある試験官によっては、最初から最後まで、ひたすら質す試験官もいたり、個人的にも間違えている部分もありますが、筆記で知らせる試験もあるのではと思ったり、ある試験では、相手がある分野で微妙に遅くなったりする場合があります。

ある試験では最初から完全に無視されたり視線や正面に向き合わないで、空気扱いされたと思ったら、最後に解散後、本部教室を出ようとしたら、いきなり「お疲れ様でした。」と言われました。

また「おまえが悪いんだ」と言いつつ、部長であることを強調し、朝礼、昼休み、終礼のときにウサを晴らしてくる場合もありました。

これらのいくつかの例は、あくまで個人的に会ったことなので、他にもいろいろ行為があると思います。

すみませんでした。

試験官などを潰す試験官が、今後も出てくる可能性があります。おそらく知っているかもしれないですけど、今後、試験官の仕事をするときは、気をつけたほうが思います。

最後に、試験官の経験をいきなり色々と意見を言ってすいませんでした。

偏差値29でも後ろからクラスブービーか。

もともと勉強ができなく、テストや通知表を見ると、20〜30点くらいで、ほぼオール1をとったかという印象だった。

小学校6年の2学期から塾に行ったし、中学生から浪人時代になっても塾に行ったが、あまり成績が伸びた実感が湧かなかった。

小学校は校長室に連れられて、お寺で修行と
言われたが、ひょっとしたら教育委員会に行くか、退学させられるのではないかと思った。

結果的に校長先生に止められたおかげと良くも悪くも孤立しなかったので、卒業できた。

中学校、高校では、入学してまもなく学校模擬テストを受けて、ともに偏差値29を取ったことがあるし、予備校の模試でも偏差値29を取った。

当然、大学受験は、一つも受からなかったし、高校受験は、併願はおろか単願を取れる高校がなく、専門学校と高校一般受験を8校受けて5校落ちた。

大学は、父親が当時受験しなくても入学できる通信教育になってしまった。

正直、今振り返ると、母親には何度も言ったが、入学試験代、塾などの授業料を何年も払ってもらい申し訳なかったし、受験できない人たちに受験してもらったほうが良かったし、
受験生と話すことじたい人生をかけて学校や大学に入ろうとする人たちにいてはいけないフンイキだと思った。

なぜ受験勉強をしたかと言うと、思い起こせば父親に「人と接するのが苦手だから私立に行け」と「食事中に言われたり、学者になったほうが良い」と言われたところからだった。

その時は、何とも思わなかったが、小学6年生のある塾の夏期講習を受けるための試験をいきなり受けた。

結果は、2回受けて落ちたが、自分は、何がなんだかよく分からなかった。

結局、他の塾で夏期講習を受けるわけだが、なぜか緊張してしまったり、他人に声をかけらたり、怖かった印象がある。ただ声をかけてくれた人たちが同じ中学校で一緒になるとは…。

勉強というと、小学校では何をしたか、まったく憶えていないし、中学校は、最初はなんとなく理解出来たのかもしれない。途中からなんの勉強をしているのか分からなくなった。

やっと証明や方程式の題名が多少憶えているかだった。中学3年生になると同じクラスをさらに細かくクラス分けされた。たぶん一番できないクラスだったと思う。

中学校3年間は、週1日か2日だったと思う。塾に行っているというより、早く塾がオワラナイかしか考えてなかった。たぶん高校3年間通った塾でも同じ感じだったと思う。

勉強は、のちに大学受験もだが、高校受験に通用するのかも分からなかった。今は、文字を見ると眠くなってしまい、うたた寝してしまうが、当時は、眠っていたのか、ボーとしてたのかもあまり記憶にない。

大学もだが、高校も学校の先生や塾の先生に行く学校がなく、父親は怒っていたが、母はガッカリしていた(ただ大学進学には、こだわってはその時は思わなかった)。

冬期講習では、成績でクラス分けしなかったのか、科目でクラス分けしなかったかは、理由はわからないが、塾の先生に問題の答えを答えるさいに優しくされたことが記憶にある。人によっては厳しく叱責されたりしていた。お客さんという感じだったし、出ていったほうが良かったと思う。

いま振り返ると、一緒に同じ教室にいたことがスゴく申しわけなく思ったし、塾に行かないほうがよいことを親に言えれば良かったと考えたり、成績が取れないなら、塾に行かないで、極端な話、ただボーとしていたり、遊んでいたほうがマシだったと思う。

高校受験で合格した1校は、試験内容が教科書の問題ほぼそのまま出題されたり、進学する人数が基準より低かったから受かっただけだった。あとは、問題みてもほぼ解けなかった感じがしたことが当たったのかほぼ落ちた。

運良く高校に入学したが、入学直後の試験で偏差値29だったので、大学に進学するのは無理だと思った。

しかも大学受験は、高校に受けた授業と違いすぎて何をしてよいか、全く分からなかったこと、幸い高校が卒業するには良かったが、高校じたいが合わなくて精神的にある意味参ってしまい、大学受験はおろか将来について全く考えなかったり、なにか行動を起こすことが怖かったし、行動できなかった。

大学受験の塾で模擬テストの成績もおそらく0点に近い状態で偏差値29をとってしまい、進路相談員に「単語を憶えたほうが良い」と言われたが、どこから単語を憶えて良いか分からなかった。

その後、就職や将来を歩むのが怖くて、とりあえず浪人したが、塾のお金を無駄に払っているだけでだったし、塾の受付の人たちに笑われていたいうか、「来るな」と言われているかのようだった。

母親も塾のお金を支払う際に、睨みつけれているようで悪者扱いされているようだった。大学受験に落ちても落ちても大学の願書をとってきて受けるように言われた。なぜこんなに大学進学にこだわるのか分からなかった。

浪人時代は何をしていたかと言うと、一人で家か塾にずっといるか、テレビを見てるかだった。その時によくみていたのがボキャブラ天国だった。その他にテレビを曜日によって3時間見てるか、多少、スーパーファミコン?をしていた記憶がある。

ともかく浪人時代は、はやく一年過ぎないかなと、ずっと思っていた記憶がある。勉強しても頭に入っているかサッパリ分からなく、ただ机に座っていた記憶がある。

高校受験時代もそうだが大学受験も自分が受かりそうな学校を選んだこともあったが、大学受験は全部落ちてしまい、親に数校受験させたられたとはいえ、受験料を払ってくれた両親に申し訳なかった。

大学受験に落ちて自分は、はじめて人生取り残された感じがしたと同時に親から言われたことは、こなした感じがした。ただむなしさというか、一人でただ立っているような感じがして、どうしていいか考えたり、行動できなかった。

結局振り返ると高校、大学受験は、まわりに振りまわされているというか、人生を歩むために必要だと言うことを全く分からなかったし、自分で歩むためには、何をするか高校や大学で何をしたいかを意識していなかった。

ナッシー語録30 42

•20年、30年前は、劣等生やどうしようもなくても逆に20、30年経つと良かったこともある場合もある。
たとえば見た感じ幸せに見えたりすることが決して良いわけでもないし、一人でいたからこそ、ある意味、現在も生きていられている場合もある。


•経験とは大変で困難な状況であればあるほど後になって生きることもある。その場なときや短期的に見ると出てこない部分が、視野を拡げたり、長期的に見たりすると今まで出てこないところが表れたりすることもある。


•ある程度、実力がついたり、地力があっても決して成功するわけではない。ある人が実力があり、先に進んでも真っすぐ進む人もいれば、右に進む場合もあるから。

・人間見た目は大人に見えてもどこか子供に見えるときもある。一瞬や短時間ならわからないことでも時を過ごたり、その人の行動によって見えたりする場合もあるから。


・たまには価値観や考えかたが違う人と接すると新たな発見がある。
遊んでいるときに、道案内しているときに突然の思いつきで方向転換した場合、新しい景色が見えたり、考えが浮かんだりする場合があるから。


・人生どんなことでも体験したりすることは、無駄なことはないと自分は思う。いつ何時かいづれかはわからないが、いつかは自分にも他の人たちにも生かされるときが来るときがある場合があるから。


•人の価値は、見た目や肩書など以上に、より接すれば、その人の存在する理由がわかるときがある。


・地位は、人を作るということわざ。
たとえば地位になった当初は、人があるによってはナゼと思うことがあるが、時が経ったり、ある日に突然、思うときがあるから。


・先輩は、なぜか自然になる。そのような感じがする。


・知らないことや分からないことは、時には得することがある。知らないふりをしたりした場合は、逆になってしまう。


・社会や常識を全て完璧に身につけることは難しい。なぜなら数十年経っても、どこか欠けていたり、身につかなかったりするから。また個々の人生や職場の経緯、社会環境にもよるから。結局は、元に戻るし、逆ならその日暮らしにとって適した環境だったと思う。


・自然にしていれば、友人や異性ができる。決断したり、妥協すればタイミングが合えば恋人や結婚もできる。なぜなら似たような人たちと知り合いになることが多い。例えどう足掻いたとしても…。


・弱い人間は、己の限界を知っている。
 なぜなら見栄を張ったり、意気がっても結局は、本質は変わらないし、身体や精神を壊すだけだから。

・見えないことはには、良いこともある。
 見えないと不自然が多いが、見えないからこそ何も感じないこともある。


・成長する過程を見せたほうが良い。
 失敗から成長する姿を見た下の世代が、それを糧に新たなことを学んで行くかもしれないから。


・子は親を超えられるなら、通過点でも良いから超えるべきだと思う。
 そうしないと人生を前に歩むことができないからであると思う。



・道具は、使うためにある。使わなければ意味がない。ただ場合によっては使わなくても済むこともある。


・悲しみとは、考え方によっては永遠に辛いものだが、悲しみから得ることや人生が変わることもある。



・アイドルとは、幻想であリ続けた方が良い。
 ファンや人に印象づけたり、喜びや悲しみなどの   感情を与えられる範囲が理想の一つではないか?
それ以外は、現実にあり続けないのだから。


・経験とは、実際に体験したり、させられたりして実感し、後々、生かすもの。


・人生は、頭が良かろうがバカだろうが、はっきりした人が前に進む。人種やスタイルなどは関係ない。

人生を歩んでいる人達を見ていると、余計なことを考えたり、行動したりするより進むと決めたら持続して進む人たちの方が人生前に進んでいる気がする。それは頭がよかろうが、能力があるないは関係と思う。

・出世は一つではない。いろいろな出世の仕方がある。


・一日一日の積み重ねが後にものを言うときがある。


・もちろん目標があれば良い。ときと場合によっては、なかったり、切り替えた方が気が楽なときもある。

目標をもつことはヒマを持て余すよりあったほうが生きててメリハリがある。ただ目標が高すぎるとやみくもに行動したり、パニックってしまうので、多少、目標を低くすることで冷静に判断できたり、気楽になるときがある。


・抜け道は、時には必要である。

人生は、まともにすすんでも行き詰まったり、トラブルを招くことが多々だが、時間をずらしたり、避けることで何事もなく過ごすことができる。
それは逃げではなく、人生において一時的でも生きていくための抜け道である。



・何事にもおいて進むには1つではない。他の道もある場所もある。

車や自転車でも目的地に向かうとき、交通渋滞や工事で進めなくても多少、時間がかかるが他の道路に向かえば良いときもある。なぜなら違う道に進むことで新たな道や景色を見られるからだ。



・相手をよおく見れば違う視点や考えが浮かぶ。

違う価値観を持った相手と接したとき、普通は接するのをやめる。ただ相手と長時間接すると相手の気持ちや考えていることが理解できることもある。



・1つのことを続けると時に役立つこともある。

小学高学年から徒歩30分のところから自宅まで歩いて帰っていたら、チラシを配るときに役立った。

2022 参院選、最近の配布が大変、疲労。

今回の参議院選挙は、去年の衆議院選挙に比べると全体的に静かな感じがする。
 
街を歩いていると、政治ポスターを貼ってある箇所は、いつも通りだが、候補者の街説や宣伝車が少ない気がする。

個人としても地元の候補者は、数人しか知らない。自宅のポストに候補者のチラシや公報で話題に出てくるくらいの印象しかない。

各駅付近に行くと、候補者や宣伝車が街説している姿を見かけるが、候補者が神社や住宅街にたまに街説したりする姿を見かけることなく、メディアと各駅付近以外は、政治ポスターが貼ってなければ、普段の日常とたいして差がない。

しいてあげるなら配布する区や市、会社によっては、配布する種類や紙質の厚さが違うくらいだった。

若者の期日前投票は、やや投票数がいつもより多いらしい。それは、投票できる年齢が18歳からになったおかげか、動画などSNSの影響かはわからないが、若者はおろか街を歩いていても選挙の話題すらない感じがする。むしろ選挙より台風が来るかどうかの話がたびたび聞こえてくる。

そういえば、前回の衆議院選挙は、個人としては、バタバタしていた感じがある。おそらく理由は、急遽、選挙することが決まり、勤務している会社でも決まっていたなかで、さらに仕事が増えてしまい、公報を配布したのだが、あまりにも日にちが少ないためか納期を若干すぎてしまった記憶がある。

今回の参議院選挙については、日数的には余裕があったり、夏に行う参議院選挙に比べて梅雨明けしたためか、ほとんど雨が降らない状態で配布できたのは始めてで身軽で良かったけど、東京都と埼玉県の地域によっては、紙質の厚さ、配布する種類がちがった。


やっぱり参議院選挙は、衆議院選挙に比べると注目の度合いがまったく違うと思った。今年の夏は、梅雨明けしたためか、雨が降っている時よりも同僚たちの疲れかたが微妙に違うと思った。

さらに日が経つごとに疲れかたがそれぞれ違ったし、その後の行動ても仕事などがあって多少精神的にめげてしまった。

ダンボールの紙質が年々変わっていく

スーパーで飲料水を買うと、ダンボールが年々うすくなっているような気がする。

以前していた仕事でも、もう少しダンボールがあつく、解体したり、ゴミに出したりするのに苦労した感じがする。

スーパーでダンボールにさわったり、運んだりしていると、実際にはこに物がはいっていると重いのだが、いざダンボールから物をすべて出するとダンボールじたいの重さがかるくなったと思う。

かるいからといって全てのダンボールが解体しやすかったり、運びやすいわけではなく、逆にダンボールの角の形や場所によっては、持ちにくい場合もある。

みばえもおなじダンボールの紙が多いような感じがする。

なぜ、そう思ってしまうのかは、わからないが、以前していた仕事の一環にダンボールの搬入・搬出をしていて、ダンボールに関わっていたせいか、ダンボールをみると色々と感じてしまうことがある。

以前のダンボールは、紙のあつさがあついだけでなく、さわり心地も良かった感じがする。

解体するときも紙がかたいせいで、まとめるときも手間がかかるときもあるが、しっかりしていて中身は崩れにくいと思った。

高校卒業後の未来や取り組んだ。不定、

もともと大学進学は頭になかった。

高校入学して全国共通テスト?の結果をみて
大学は無理だなと思った。高校を卒業できれば良いと思った。

高校を卒業して2年間は、テレビを見たり、街をブラブラして浪人生とニートでいたが、たまたま家族で食事をしていると父親が通信制の大学があるから、一度会場に行ってみないか、と言われた。

 

とりあえず新聞に載っているよ、と言われたので新聞を見てみると、通信制大学の一覧が載っていた。

 

読んでみると合同説明会があるので、予定が空いていたから行くことにした。都内のある高層ビルに行くと数十箇所の大学の職員らしき人たちがブースにいた。

いくつかまわったが、よく内容がわからなかった。入学案内の封筒をいくつかもらって帰った。

 

家に帰って数カ所の入学願書の中身を見てみると、頭に入ってくるのは、学費だけだった。

 

その中で一番学費が安い大学を選んだ。その他は、自宅から通えるところが決めてだったと思う。

 

正直半信半疑だった。本当に通信教育で大学を卒業できるか、実は、まったく違う可能性もあると考えてしまった。

 

書類を記入して、学費を支払うと後日、学科書が
送られて来た。来たけど、何から始めれば良いのか分からず、半年間くらい、そのまま放置していた。

 

正直、学力がない自分が通信教育でも大学の勉強をしていいのか考えてしまったことも事実だった。

 

将来のことも考えるべきだったが、高校卒業から多少引きこもりで前に進むのが怖かったのか、なかなか行動をすることができないでいた。

 

親や親戚たちにも心配されるようになった。
 
おそらく通信教育部の本部やハローワークに直接行けばよいと思うのだが、目的もなく生きていくのがマズイと思ったこともあり、なぜか部屋で学科書を開いていた。

学科書を開いてみると、よくわからなかったので、学習ガイダンスを見ていた。 

 

学習ガイダンスには、通信教育の心構えや単位のとり方などが記載されていた。

大分、大まかに読んでから、レポートを書いて通信教育部?に郵送した。2週間くらいして返信されてきた。

 

大学には、単位を取らなければいけなかった。単位をとるには、いくつかのやり方があった。
おそらくレポートの課題を2つ合格すれば、科目試験を受ける権利があった。
 
各科目の試験時間割があって、試験を受ける時間割がバラバラに振り分けられていたので、受ける日にちによって、時間帯が違っていた。

最初は、どう受ければ分からず悩んでしまったが、とりあえず受けてみた。結果は忘れてしまったが、取れることがわかった。

試験で単位を取ることができない科目は、スクリーングと言って5日間くらい?、直接大学か通信教育部に行って講義を受けて、なおかつ試験が受かればれば単位を取れた。

ただスクリーングは、一科目の半分しか単位が取れないので、2回受けないと単位を取ることができない。

 

自分の場合は、大学がほぼ全国にあったので、福島県宮城県、栃木県、茨城県熊本県に行って単位を取りに行ってしまった。たまたま教授の人たちや講義に恵まれたおかげもあり多分、単位を取れたのではないかと思う。

 

他にも1年間くらい大学に通学するスクーリングもあったが、お金がかかるのと、ほぼ毎日、通学して人と接するのが苦手なので、やめた。

 

卒業論文は、3年生の冬あたりから約1年間、個人指導を受けた。

 

卒論の題名は、何にするか決めなければならないことを受けたが、正直色々とわからないのと題名に対して細かく内容を突き詰めてない?からやり直したこともあった。

題名が決まっても何章か大まかにに分けるのにも苦労してしまった。

 

内容を書く資料を集めるのに大学図書館や地元いくつかの図書館、国会図書館などに、ほぼ毎日通っていた。

当てはまる資料があるば、ひたすらコピーしたり、ノートに取っていた記憶があった。

 

資料が集まって、書いたのはいいが、論文というより色々な資料の文章を繋げて文字数を稼いでいた。
当時は、原稿用紙かパソコン内のアプリwordで入力するか選択できた。

 

原稿用紙で書いたが、やや枚数が少なかったらしかったが、なんとか単位を取ることができた。

 

大学の単位は、幸い多くの教授たちの講義があったので、その人たちから講義を受けられて取れそうな科目だけをほぼ取れたことは良かったかもしれない。

 

ただ個人で学習してしまったので、卒業するのに年数がかかったり、余計な単位を取りすぎてしまった。

 

他の同大学の学生たちや大学事務所、相談にのってくれる場所で卒業に必要な単位のとり方や学習方法を教わるべきだったと思う。

 

2002年採用時の就職活動に関しては、4年生になり始めのときに、某会社の役員?がきたり、大学指定の履歴書をもらって書いたけど、今振り返ると、某会社や業界にこだわりがなければ、どこかしら採用される感じだった。

 

ただ某会社に入社しても勤務し続けるかは、わからないので、とりあえず企業説明会や面接などである程度、聞ける範囲で各担当さんたちや社員さんたちに内容を確認したほうが、入社した時に多少、違いがないかも知れない。

 

OG訪問は、人と接するのが苦手だったので、全くしなかったが、もしも可能なら希望する業界や会社に勤務していたり、以前、勤務している人たちに聞いたほうがより生きた情報だった。

 

ただ、生きた情報もこれから色々と考えるための参考や助けになる場合もあるけど、逆も場合あるので、知り合いに勤務している人たちの情報は、いい意味で判断したほうが良いかもしれないと思う。

 

ちなみに自分の場合は、合同企業説明会に行った後日に卒業後の勤務先から夜に電話がかかってきて、説明会に来ないかと言われて行って、数回、面接して卒業式の日の夜に採用されてしまった。

 

就職先が決まったのは本当に運が良かったけど、会社における配属先の雰囲気や仕事の流れを聞かなかったので、ちょっと失敗だらけだった。

 

大学通信教育を卒業できたおかげで、就職できたこと、職場や世間体、スポーツなどの話で得した部分もあるし、ある意味、人生を歩むという意味で損した部分もあるので、結局は微妙だった。