時間が微妙な高校生活の出来事。ダメだめ。
高校生になると入学式を行なった。入学式自体は、普通というか何事もなく終わった感じある。強いて上げるなら校舎のまえに傾斜45度くらいの坂道に咲いている桜が印象に残ったくらい。
入学して、おそらく全国共通テストを受けた記憶がある。テストの結果を見て大学進学は無理だと諦めた。その後に進路や将来のことを考えるべきだと思ったが。
オリエンテーションで校歌を覚えさせられたり、教科書などをもらったりした。自転車通学の人達は、自転車の後ろに付けるシールをもらっていた。
クラスは、2年生の時に変わっただけだった。おそらく美術、音楽、書道?など選択科目に対して美術を選んだ影響もあったかもしれない。ただ選択科目によっては3年間一緒のクラスもあった。
クラス自体は、1年生のときは、数回席替えをしたが、2、3年生の時は、1回も席替えをしなかった。クラスの人達たちは、見た感じ普通の人達だたが、制服の中、上着やシャツは、自由だったので、なかには私服の人達も多かった。
席替えをした1年生のときは、クラスの人達と話したことがあったが、2、3年生のときは、席替えをしなかったせいか、約3割くらいの人達と話さなかった。そのせいか卒業アルバムを見ないと顔や名前を思い出せない人達が半分以上いる。
行事も少ない方だと思う。球技大会が年に1回か2回あったが、なぜか運動会は、1年生になって数ヶ月で一度、陸上競技場で行なっただけだった。
出場した種目は、おそらくクラス全体のリレーのみだったと思う。
球技大会は、バレーボールとサッカーをやっていたと思う。対戦形式は、トーナメント方式で成績は、ビリに近かったと思う。
スポーツで思い出したか、同じクラスの人達にサッカーの社会人リーグや競輪選手になった人もいた。
その人たちも体育の授業を一緒にして技術や体力が違いすぎると思った。
部活に入部しなくて良かったと思う。ともかく素人とは次元が違う感じがする。一人は、今も現役選手だからビックリする。
文化祭は、クラスごとに催しをするのだが、催しをするしない事も選ぶこともでき、クラスによっては催しをしないでゴミ拾いのボランティアをしているクラスもあった。
確か自分のクラスは、1年生はカキ氷のお店、2、3年のときは、観光地か何かを題目にした大きめサイズの貼り紙を貼った記憶がある。
当日は、同じのクラス親御さんか友達が来ていた感じがする。後、部活の宣伝の場なのかスポーツ関連では、練習試合を行なったり、文化部では、制作を宣伝していたりしていた。
旅行は、スキーの林間学校と修学旅行に行った。
スキーの林間学校は、1年の冬に2泊3日だった。福島県内のスキー場だった。
事前にスキーを滑るクラス分けをしていたが、当日滑るとボウゲンが酷かったため、初心者クラスに移ることになったが、結果的に思ったより楽に過ごせたので良かった。
部屋は、10人部屋でベッドがついていた。
林間学校で記憶にあるのは、KANの「愛は勝つ」が流れていたかもしれない。
修学旅行は、2年の秋に京都、奈良に行った。約1週間くらいで基本、初日に京都駅に着くまでか、帰りに京都駅から東京駅に帰るまでは、グループごとの自由行動で、部屋割りやグループは、ほとんど同じ人達といた記憶がある。
グループごとの行動は、基本グループのリーダーが全て決めたところをまわった記憶しかない。行った場所は、平安神宮、清水寺、奈良公園、二条城などだったと思う。
ただ目的地に行くだけでなく、チケットも先生に見せなければ行けなかったと思う。
できれば、みんなで行く場所を希望を出したり、穴場のスポットに行くべきではないかと思った。
宿は、旅館で10人部屋で床は畳だったと思う。
修学旅行で覚えているのは、ともかく右あごが痛かったことが記憶に残っていたり、なぜか昼食は、マクドナルドだった。
競歩大会は、年に1回、秋ごろに開催していた。場所は、さいたま市内の土手を往復で現地に直行直帰。距離は、約30キロ走った。始めの年は、ペース配分を知らないで最後の5キロくらい歩いてしまった。
その後の2年間は、なんとか走り切ることができた。
個人的には、毎年登録カードを持参しないと記録に残らないのだが、1年生の時にカードを忘れてしまい、ゴールしたのに記録に残らなかったのは少し痛い思い出として残っている。
通学は、月曜日から金曜日まで5時間授業、水曜日は、6時間授業、土曜日は、3時間授業で、2年生以降は、第2土曜日は休日という感じ。
授業は、3年生の1月まででした。
個人としては、1年生の1学期に約1ヶ月間くらい靭帯損傷で学校に行けなかったこと、多少風邪を引いて何日間か休んでしまいました。
部活は、自宅から1時間30分くらいかかってしまったこともあり、ほとんど帰宅部でした。基本、家にいて漫画や雑誌、ロールプレイングゲームをしていました。
進路相談も3年生のときに1回だけしたが、ある意味、個人に任せていたと思う。それ以上は、ほとんど何もなかった。
今思うと、それは言い訳として、高校生の頃に少しでも将来について考えるべきだったと思うし、強いてあげるなら生涯付き合える仲間を作れたら、もうちょっと人生にゆとりを持てたかもしれない。
2歳から会話できない人間の歩み。途中。
自閉症と間違えられて検査した内容とその後歩んできた経過は。
生まれたときから小学生の時まで、言葉が出てこないので良く障害者に間違えられていた。決して悲観的になったりしているわけではなく、その時に起きたことや記憶にあることを投稿しようと思う。
さっきも投稿した通り、生まれた時から言葉が出てこなかった。数十年、歳をとった現在でも会話をしたり、人に伝えるときは言葉が出なかったり、噛んでしまったりする時が多々あるのだが。
実際に言葉がでないと感じたのは小学2年のときで、ラ・リ・ル・レ・ロが言えず、危機感を持ったのか、先生が地元の小学校の施設にある児童センターを紹介してくれた。
児童センターに行くとスタッフが一人いて発声などをして検査して行った。ひと通り終えると車で帰った。後日、検査して異常なしと連絡が来た。
後で聞いた話だが、児童センターを勧めた先生が悪いと感じたのか、通信簿を普段より一段階上げてくれたと思う。
親から聞いた話だと2歳のときも自閉症と間違えられて、医者に行って脳の検査をしてもらったり、ひまわり学園に行ってスタッフ相談に行ったこともあるらしい。
親が仕事が忙しく、まったく自分を見ることが出来なかったことや数週間、家政婦に見てもらったことなどを話したらしい。
その時に外に出した方が良いらしいと言われ、できる限り親が外に連れて行ってくれたことは、うっすらと覚えている。
その前にもノートや壁によく分からない色鉛筆かクレヨンで描いた跡が残っていたり、思いがけない行動をしたり、テンバっていたのかわからないが動揺しやすかったり、落ち着きがなかったことは覚えていたり、人の接しかたが分からず、たまに奇行を起こしていたことも記憶にある。多分、自閉症とは関係ないと思うんだけど。
その中で記憶にあるのは、人と会話をするときに話がまとまらず、何を言っているのか分からなくて相手に伝わらないことが多々あったことは覚えている。
社会人になると、また自閉症か思いたくなる症状が現れる。大勢の人前で話そうとすると言葉が出なくなることだ。ひどいときは、約10秒間くらい沈黙が出来てしまう。
頭のなかで話す内容を決めると少しは、言葉が出るのだが、虚をつかれたりすると言葉が出なくなってしまう。
正直、病気かと思ったくらいだ。上司や同僚には、「普段から会話をすること」や「結論から話した方が良い」とアドバイスしてくれてはいたが、いざ実戦してみると中々身につかないので余計落ち込んだでしまう。
何が一番良いのか分からす、失敗するとひたすら焦っていた。そんな時にある本を見て、気持ちが我に還ったのか、
内容は、いきなり結果を求め過ぎて焦らずじっくりとやって行ったほうが良い。と思った。と同時にその時の自分の言葉で出来るだけ伝えたほうが良いと思いついた。
その本を読んだり直感で感じてから、一歩でも半歩で自然に話すことを心がけて行くことにした。
そうするとある時になって経って少しずつ言葉が出るようになって来た。まだ会話をするときは言葉が詰まることがあるが。
自分でも細かい原因は分からないが、いくつか挙げるとするなら毎日親と会話したり、同僚と会話だけでなく細かく指摘してくれたり、他人の会話を自分でアレンジしたことも、会話ができるようになった原因かもしれない。
自閉症の疑いがあって障害者かもしれないと言われ、いろいろと親やまわりの人達に迷惑を多々かけてしまって、自分のせいだと思ったり、親のせいじゃないかと思ったけど、時が経っていたり、お互いに年齢を重ねたおかげかはわからないが、根底は親と一緒にいたことが少しずつ言葉が出てきた原因だったと思う。
2022年。今年はどんな時間通過になる。
もう2022年になってしまった。
今年の正月は、人生で初めてと言って良いほど
何日間か家で過ごした。去年までは、ほぼ毎日外に出て親戚に挨拶まわり、初詣に行くなど、ともかく気付いたら正月もしくは年末年始が過ぎるのが早かったイメージしかなかった。
今年はコロナ影響もあるが、親戚が各々忙しくて会う日にちや時間がズレてしまったり、今は会わない方が良いと判断されたりしたからかなぁ?
会えないのは寂しい気もするが、それでも去年より初詣も人混みが多かったので、何かと時の流れを感じてしまう。
去年は、細かい事で色々と変化が多かった年だった。一人でまわりの用事をこなす量が増えてしまった感じがする。ただ今後は、そういうことに向き合わなければならないのも大変な事だよ。
できるなら今年以降は、まわりの用事をこなしつつ、半歩でも進んで行けたらと思う。
coopデリを決意した結果、依頼した後々は。
ここ数年、買い出しをするのが大変で特に飲み物やお米など重い物をわざわざ自宅に持って帰るのが、苦に近い状態になって来て、自宅内に持って行くとなると大変で疲れて寝てしまう時もありました。
これでは限界に近づいてしまうので、どうしようかと悩んでいたら、住宅街を歩いていると、たまにデリバリーと思われる箱を玄関前で見かけたので、これはひょっとしたらいつもまわっているスーパーマーケットを調べていると、COOPがデリバリーをしていると話しやサイト、資料で知ったので、これを頼んだら少しは楽になるかな、という浅はかな考えが脳裏に浮かび、恐る恐るCOOPに電話をしました。
電話をすると営業担当の人が仕事の終わりに来ると言うので、夜まで待つことにしました。
18時を少し過ぎたあたりになると、営業担当の人が来て、デリバリーの申込み書やデリバリーのカタログなど書類を出してきたので、どのくらいの間隔で来るのか、書類の記入の仕方、デリバリーが来た時の対応などを聞いて、色々とこなしました。
営業担当の人が去った後、知り合いにデリバリーやり方やどのくらいペースで頼んでいるかを聞いた後、数日後にデリバリーを頼む記入用紙に、とりあえず1週間ごとに来るらしいので、それくらいの期間持つものを頼もう、と考えました。
デリバリーをする品物が載っているカタログとにらめっこしながら、無駄に色々とページをめくりながら約1時間くらいかかってやっと作業を終えることができました。
COOP配達員が直接玄関で取りに来てくれるので、どこに置こうか迷った挙げ句、記入用紙やカタログを入れた袋を玄関の左に置くことにしました。
昼間の時間になると、COOPデリバリーらしきトラックが近所のまわりに止まったりしました。COOP配達員がトラックから降りて家の門に入ってきて、玄関左にある袋を取ってトラックに乗って去って行きました。
1週間後の夜に自宅に帰って来ると、玄関ね左側にプラスチックや発砲スチロールの箱がいくつか置いてある景色を見ました。とりあえず箱を玄関の中に入れるか外にそのまま置いて置くか迷いましたが、とりあえず家の中に入れることにしました。家に入れた後に箱の中に入っている品物を見てみると中身が冷凍してありました。正直、品物が腐っでいるのではないか心配しましたが、冷凍してあったので安心しました。
さらに1週間後になって記入用紙やカタログが入った袋と先週届いた品物が入った箱を玄関に出しました。その日の昼間以降に自宅に帰ると品物が入った箱が置いてありました。ちなみに自宅にいる時は、箱以外の品物を届けてくれました。
個人的には、重い品物を中心に頼んだりしました。また週によっては、頼む品物を変えたりしていました。
最後にCOOPデリバリーを頼んでみて思ったのは、使い方によっては、すごく便利だし重い品物を買い出ししなくいいのは、楽な時があります。
秩父に数十年ぶり来たよ。徒歩移動でまわる
秩父に日帰りで観光してきた。正確には分からないが、おそらく数十年ぶりだったと思う。
以前から行きたかったが、仕事やブライベートなどで中々時間が確保できなかたり、片道3時間以上かかるので、日帰りで往復だと疲れが残ったり、三峯神社など観光地によっては、その日に帰ってくることができないから、後回しにしていた。
今回は、本当に天気が良く、仕事も休みだったので、思いきって行くことにした。
何回か乗り継いで行くと周りの景色が山や田舎の景色が目立つようになった。電車内は、祝日だったため、ほとんど乗客は少なかった。
秩父駅に着いてから、これから向かう目的地を確認してから、まずは秩父神社に向かうことにした。
基本的には歩いて行くつもりだったので、まずは歩ける範囲で秩父をまわるつもりだった。
秩父神社周辺には、観光客が結構いました。
参拝後、少林寺、慈眼寺、羊山公園、秩父まつり会館をまわりました。個人的には、ナビがあったので、ほぼ道に迷わないでまわることができたが、思った以上に、結構歩いてしまった。
今度、秩父に行くときは自転車、バスで移動したほうが案外楽かもしれないし、行動範囲が広がりそうだと思った。いづれは、泊まりで行ったほうが身体の疲れがとれたり、精神的にも楽だと思った。
尿管結石の痛みと数時間から約1ヵ月経過は。
これまで人生を生きてきたなかで、病気になったことは何度もあったが、いくつかツラい病気もあった。
特に発症直後がとてもインパクトが強すぎて10年以上経った現在でも忘れられなかった。
一言で尿管結石だけど、自分自身の病気体験として投稿しようと思う。
10年以上まえの大晦日午前5時25分くらいだったと思う。寝ている最中に急に右下真ん中あたりに激痛が走って起き上がってしまった。言い方によっては大げさにとらえられるかもしれないけど、北斗の拳の主人公 ケンシロウに「アタタタタタ」と高速連打をされているような症状だった。
当然、激痛が走って眠れなくなるは、おでこからあぶらあせがでてきてしまい、身体がじっと出来ない状態で暴れまくっていたり、絶えず上半身を動かしている状態だった。
それでも無理矢理布団に入って眠れば良くなるだろうと勝手に思い込み、ともかく布団に入って何とか30分くらい眠ったが、全然症状は全く変わらなかった。
朝食は、多少食べることができたり、トイレをすることはできたが、下腹部左あたりの激痛は、治まらず病院に行こうとしたが、その日が大晦日で休診だった。
駄目もとで電話したら、多少お金がかかるが他の科の先生が診てくれるということなので、何もしないよりましだと思い、病院に向かうことにした。
本当は、救急車かタクシーで一刻も早く行きたかったがお金がなかったので、歩いて行くことにした。
病院に向かうときの足取りは足や腰を負傷したときみたいに引きずったり、歩く速度などは変わらず、向かえたのは良かったが、下腹部左あたりの激痛は、ひどかったが、歩いているうちに少しずつ痛さが和らいで来ている感じがした。
病院に着いて院内に入ると、ほとんど診察している人がいなく受付を済ませて、診察を待っている状態だった。
診察を受けて症状の経緯を話したり問診してもらうと、先生がおそらく尿管結石ではないかと話してくれた。
自分の場合、下腹部だけでなく右の腰まわりも痛いことを話したのが、決め手だったのかも。
その日は、急遽仕事を休んでしまったので、後日も休んだほうが良いか相談したら、逆に動いたほうが良いと言われた。
正直驚いてしまったが、帰宅途中にどうしようかと考えながら、症状があまりにもインパクトが強かったし、休む方向に向かっていたが、6~7時間くらい経つと激しい痛みが鈍痛に変化したり、それ以外、日常生活には支障があまりなかったので、次の日には仕事に行く決断をした。
仕事中に動いていても、鈍痛以外は支障がなかったので、普通にこなすことができた。
数日後、再び病院に行き検査をしてもらうと、尿管結石になっていると言われ、結石が0.6センチあると言われた。2週間後?に検査して結石があれば、結石を砕く医療器具を使用すると言われました。その他に先生には、できるだけ動いて結石を尿で出せれば良いと言われましたので、仕事をするだけでなく、ランニングや縄跳びをして身体を動かすようにしました。
毎日、ランニングは、5キロくらい。縄跳びは、たまに100回くらいするようにしました。もともと運動することが好きなほうなので、朝や昼間だけでなく夜中も活動していました。
2週間後、病院に行き結石を砕く医療器具がある部屋に先生と向かいました。医療器具がある部屋に入ってベッドで横になって、体内に結石があるか検査を開始しました。検査をして数分が経ちました。すると先生から結石がないから、これ以上の作業はしないと言われ、そのまま終了しました。
他の部屋に行って問診を再開していると、今後も再発する可能性があると言われました。そう聞いて身体に気をつけないといけないと思いました。
今思うと発症からの約1か月は、始めの6、7時間以降の激痛以降は、鈍痛が続いた感じだったが、それでも大変だった。
今振り返るとなぜ発症したかは、正確には分からないが、スポーツ飲料水を一日5本くらい飲んでいたせいか副業で深夜遅くまで働いていたことが影響したのかもしれない。もし尿管結石で激痛になったら、病院に行くのが良いと思うが、約6時間くらい待って鈍痛に変わったので、その後は、鈍痛のままになったから多少マシになったが、暴飲暴食を少しでも控えたり、体を気を遣ったりしたら、気になるときがあるが、今のところ尿管結石になっていない。
できれば尿管結石だけでなく、病気にならないことが一番思うし、年齢的に以前みたいに無理をしないほうが良いと言われているかもしれない。
3.11 震動、夜中から埼玉のまぎらし方法。
少し投稿するのが遅かったり、投稿するか迷いましたが、多少、気持ちの整理がついたので、個人的な体験として投稿したいと思います。
10年前、事務アルバイトで仕事をしている時、突然、大きな揺れを感じました。確かに揺れ事態は、おおきかったですが、職場の人達が事務所の外に出ていったりしていました。個人的には、そのまま家財にしがみついていました。
事務所は停電してしまいましたが、そのうち回復するだろうとおもいました。ただ同僚がインターネットで震度がどれくらいか調べていましたが、実際にインターネットで知るほど、福島県付近東北地方あたりに地震が発生源で事態が大きくなっていること、さらに事務所の外に出てみると近所の人達も外に出ていて、慌ているところを見て、近所でも普通ではないことを理解しました。
地震後は、停電で仕事が停止してしまい、職場の人達がただ座っているか、携帯をいじって情報を得ようとしている状態でした。
外に出てまわりを歩いていると、信号機が停止して、真っ黒だったり、駅周辺には、普段人気が少ないはずですが、人で溢れていました。実際に聞いてみると電車が完全に停止している状態で立ち往生しているという事でした。
コンビニなど商店街でも電気がつかず、会計をするのも電卓でしている状態でした。店によっては、ほとんど閉店状態でした。ただ意外に公衆電話に人が並んでいて何が何でも生死の確認をしていました。
自分も携帯では連絡がつかず実際にCメールでやっと確認ができたくらい電波が通じなかったことを覚えています。
まわりを確認して事務所に戻っても相変わらずただ座っている状態でした。会話しているうちに、だんだん暗くなって行きました。事務所に懐中電灯がなかったと思います。結局、携帯の懐中電灯を照らしながら、そのまま過ごしていました。
職場の何人かは、数時間歩いて帰っていきました。そのまま事務所いることも考えましたが、地理が詳しかったので、自分も歩いて帰宅することにしました。
歩いて変えると約1キロを過ぎた辺りで信号機が点滅している光景を見かけた。途中、コンビニやドラッグストアに寄ってみると、お菓子やゼリー以外の食べ物が全くなかった。帰ってから家族に聞いてもスーパーマーケットは、ガラスが割れたり、棚が倒れてしまい途中で閉店してしまったらしいです。
また歩いている最中は、反対側の道路から歩いて帰っているサラリーマンやOLも見かけた。しかも歩きながらしりとりをしている光景を見て、ウチも事務所でしりとりをしていたから、他でもやっていることに驚いてしまった。
帰る途中、橋が渡れるか不安だったが渡れたので、これで家に帰れると確信しました。
役2時間半くらいかけて家に帰ってみると、家事態は、特に変わった様子がなく安心だったが、ペットの餌をおいてある器が多少乱れていることや周辺のコンビニなどが停止していることを聞いたり、テレビで見て改めて事の深刻さを感じてしまった。
また他の連絡先から電話が来て、家に戻れずに臨時の施設に避難していることを知り、自分は、まだ家に戻れただけでも恵まれているほうだと思いました。
その後、テレビだけでなくラジオも聞くと「負けないで」など励ます曲やメッセージがひたすら流れ続けた。
次の日は、朝食を食べて事務所に電話すると通話できず行くかどうか迷ってしまったが、他の事務所に連絡してやっと繋がって聞いてみると、とりあえず仕事はしているということなので、歩いて行くことにしました。
バスや電車など交通機関を利用しようとしましたが、ほぼ停止状態なので、歩いて事務所に向かいました。
実は、今まで家族とほとんど連絡をしたことがなかったですが、Cメールでほぼ一日中取り合っていたことに対して不思議な気分だった。
昨日の帰りと違い、土日だったせいか、全く人気がなかったです。
事務所に着くと、昨日のメンバーの何人かは、一晩過ごしたりしていました。コンビニなど商店街も停止状態で食料を買いに行くのに、いつもより遠いところまで歩いて行ったらしいです。
ただ電気なども復旧していたこともあり仕事事態は、何事もなくこなすことができました。
帰りは、同僚に途中まで送ってもらいました。車中の途中、ガソリンスタンドは、約3キロ以上ガソリン供給を待つ車の列が印象にのこりました。
電車が多少動いている状態でしたが、それでも2時間以上は、かかりました。
その後も覚えていますが、特に東日本震災が発生してから2日間は、よく覚えています。
今もテレビやラジオで特集する度に、記憶が甦ってきます。コロナウイルスとは、別に普段の日常を過ごせることがいかに幸せかを実感しています。
できるなら、このような災害は、発生しないことを願いたいです。